作手見聞録


戦国武将 作手 奥平氏

  作手村は、大化改新以後に発生した荘園(1000)として、建武2年(1335)から永正3年(1506)まで、東三河の守護となった富永直郷にはじまる富永氏8代により、富永荘の一部としておさめられていた。
  菅沼氏は菅沼を中心に設楽田峯、鳳来長篠、新城野田などに城をもち、奥平氏は作手亀山城を中心として、それぞれ力をふるっていた。
戦国時代の作手村は、徳川と武田の勢力を二分する接点となり、ことあるごとに兵火の犠牲となっている。
  貞勝(1512〜1595)・貞能(1537〜1598)父子は、奥平氏を守るため武田方、徳川方に分かれた。山家三方衆といわれた作手奥平氏の実力は「甲陽軍鑑」によれば奥平氏150騎、田峯菅沼氏40騎、長篠菅沼氏30騎で、武田軍団上位17人(500〜150騎)に入る程の重みがあった。
  貞勝は甲斐国に赴き武田勝頼が天目山で自刃するまで従った。貞能は徳川家康の招きに応じ、父貞勝とはかり、徳川方についた。武田信玄、今川義元、織田信長、徳川家康の群雄が勢力を争う中で一族を守ることは大へん困難で非情な時代であった。貞能とその長子信昌は、家康の下で重責を果たすことになる。
  家康は当時21才の信昌を「若年なれど知勇兼備の信昌こそ、その器である」と長篠城主に抜擢した。城兵僅か500余人であった。武田勝頼は精鋭1万5千を率いて天正3年5月8日(1576)長篠城を包囲した。
  信昌以下城兵よく戦ったが、岡崎よりの援軍の報も遮断され、全員玉砕を覚悟したが、信昌それを許さず一人自決を決意した。
雑兵勝商、巌をこめて救援使を願い出て、見事敵中を突破して使命を果たした。一刻も早く城中に報告せんと、帰路を急ぎ、武田方に捕らえられたが、また敵をあざむき城中にむかって、援軍の来ることを大音声にて伝えた。勝頼激怒して、架上にて礫殺した。ときに36才であった。(1576.5.16)
織田・徳川の連合軍3万8千余は、武田軍を設楽原において撃滅した。(1576.5.21)
  長篠合戦に功績を上げた信昌は、かねて(1576.8)家康が奥平氏を帰属させる為に約束していた諸々の条件のうち長女亀姫を信昌に与えるという約束によって信長の勧めもあって祝言をあげた。
  その後信昌は、上野国宮崎3万石、加納10万石に移封されている。その長子家昌は宇都宮10万石となる。
  信昌の四男の忠明は、二男家治とともに家康の養子となり松平の称号を受けた。
  慶長7年(1602)9月20才の時、奥平氏が6代およそ200年近く支配した作手領の亀山城に戻り1万5千石の大名となった。忠明は亀山城主として領民に対して治道に通じ仁と愛をもって接した。旧臣に禄を与え、敬神崇祖の念に厚く、旧臣を弔い領民を子のように敬愛したので領民はその徳を慕った。また段戸山中の砂金を採取することに成功し、内にカを蓄え農民の貢租の軽減をはかった。慶長15年(1610)伊勢亀山5万石に転封されたが、作手郷はそのまま領有地として残った。その後大阪夏の陣で豊臣滅亡後元和元年(1619)大阪城10万石に封ぜられている。大阪では城、城下街の整備、架橋、田野の整備、道頓掘運河の築造などの大事業を完工した。元和5年には大和国郡山城12万石に転じた。最後は寛永16年(1639)播磨国姫路城18万石の大名となり西国探題となった。忠明が奥平氏中で最高最盛であった。

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